大学受験する高校生に英語を教えていると、どうしても「和訳」を避けては通れない。
たとえばTOEFLとか英検とか、そういう英語試験では「和訳」問題は一切登場しないんだけど、
大学入試では出まくる。特に京大だ。
それで、全然話は変わって、
「枕草子」は知ってるよね。
「春はあけぼの。」というやつだ。
これ、多くの中学生は「春は明け方が良い。」という意味だと習う。
勝手に「が良い」って付け加えてるわけだけど、自分はこれに特に疑問を感じたことはなかった。
「まあ、そう書かないと、春は明け方、ってだけだと意味分からんしね」というぐらいだった。
でも、大人になってから、たしか橋本治さんが書いた本を読んでいるときに、これはおかしいと書いてあるのに出会った。この時の衝撃は忘れられない。
どの本かも思い出せないので正確に引用できないけど、
勝手に「が良い」と加えてしまうと、書いた当時の清少納言のニュアンスを殺してしまうことになる、みたいなことが書かれていた。
当時の清少納言は「春はあけぼの」と言い切ってるんだから、
つまりはそういうふうに、彼女は世界とか言葉を捉えていたと考えるべきで、
これを現代語訳するにしても、こちらの都合で「が良い」なんて加えて、元の清少納言の表現を別物に変えてしまってはいけない、
みたいな内容だったと思う。
この思想に基づいて、橋本さんは「春は曙(あけぼの)」を、
「春って曙よ!」と訳している。
衝撃的、以外の何物でもないよね、この現代語訳。
「って」とか「よ!」と訳すのが適切なのかは賛否分かれるところだと思うけど、
ただこの考え方にはものすごく考えさせられた。
たとえ現代の自分たちには分かりにくい表現でも、
当時の人は、まさに「そういうものとして」身の回りの出来事を捉えて表現していたんだから、
それを尊重すべきっていうのは、まさに目からウロコだった。
和訳の話に戻ります。
英語には、たとえば「無生物主語」っていうのがある。
The heavy rain prevented us from going out.
みたいなやつだ。
これを直訳すると「大雨が、私たちが外出するのを妨げた。」となる。
でも普通は、この日本語は不自然だってことで、
「大雨のせいで、私たちは外出できなかった。」と和訳することが推奨される。
でも、上の理念から行くと、
英語を話す人たちは、あくまで「大雨が」外出を邪魔したんだ、「というように物事を捉えている」からこそ、The heavy rainを主語にして文を作ってるんじゃないか?とも考えられる。
そうすると、この発言をした人の気持ちに沿えば、直訳の方が、適切なのかも?という気もしてくる。
I was surprised at the news.
だって、日本語では普通は「驚いた」と訳すけど、
直訳すれば、これはあくまで受動態なんだから、「私は驚かされた」となる。
つまり、英語では、
人は自分から「驚く」存在ではなくて、
何か外界の出来事によって「驚かされる」存在として捉えているんだったら、
和訳するときもその気持ちというかニュアンサを残して直訳したっていいんじゃないか?という気がしてくる。
面白いよね。
というわけで、個人的には直訳は嫌いではないんだけど、
すべての人が同じ価値観で和訳を捉えているわけではないので、
教える時の方針としては、「入試問題で和訳が求められた時は、日本語として自然な和訳を勧める」ことにしている。
特に京大の和訳問題は複雑な文であることが多いので、
「1つの日本語の文として頭から読んだときに、理解できない箇所がないような和訳」をしてねとお願いしている。
この辺は、いわゆる「直訳」か、それとも「こなれた和訳」か、はたまた「意訳」すべきか、っていう、
けっこうメジャーな議論になるところで、みんな意見が違うから余計に面白い。
まあ、もしかするとあと10年ぐらいすれば、入試から和訳問題っていう概念自体が消えている可能性があるので、
上に書いたような内容も関係なくなってくるかもしれないけど、
でも英語の本を日本語に「翻訳」する人たちは同じような問題が常に出てくることだろう。
ちなみに、Jeffの大学時代の友達が、結婚して奥さんになったんだけど、空いた時間を使って、まさに翻訳の仕事をしている。
今度この辺の話をきいてみよう。
塾の方は、いよいよ夏に突入で、
新しいことをどんどんやっていく予定だ。
みんなの英語がもっと伸びる夏にしていこう。よし。