2015年12月21日月曜日
英語学習について(マジメ編)
たまには(?)、英語の先生らしく、真面目なことも書いてみよう。
突然だけど、次の問題を解いてみてください。
A 「わたしのけしゴム、見ませんでしたか。」
B 「あ、つくえの下に( )よ。」
(1) おちています
(2) おちていません
(3) おちます
(4) おちません
これは、1が答えだ。
まあ、文脈的に2・4がアウトなのはいいとして、
もし外国人の友だちから「なんで3はダメなの?」と聞かれたら、正確に答えられるだろうか?
ちょっと自信がない。
日本語の先生を目指しているとかじゃない限り、ほとんどの日本人が、「なんとなく分かる」とか、「普通に考えて1しか入らない」とかっていう答えだと思う。
ちなみに上の問題は、日本語能力検定(JLPT)といって、
日本語を学ぶ外国人がたくさん受けているテストの出題例だ。
日本人にとっては「なんとなく」という感覚で解ける問題が、外国人にとっては「どうして?理屈は?」と思ってしまう問題だったりする。
こういう、「理屈を言葉で説明できなくても、なぜか今までの経験上、どうすればいいか分かってしまう」ような知識のことを、手続き的知識と呼ぶ。
この「手続き的知識」を説明するためによく紹介される例は、自転車の乗り方だ。
自転車に乗るときに、いちいち「右のペダルを踏み込んで、つづいて滑らかに左のペダルへと体重を移して・・・」なんて考えない。
小さい頃はなぜか乗れず、しかし練習を繰り返すうちに(何度も転んで・・・)、
なぜか急に、ふと、「あれ、乗れてる!」という状態に達する。
でも、まだ乗れない友達に「どうやって?」と聞かれても、上手く説明できない。
「乗れるから乗れる」としか言いようがない。
これが、手続き的知識だ。
これと対になっているのが、宣言的知識と呼ばれるもの。
これは、手続き的知識と違って、しっかりと言葉を使って説明することが可能だ。
我々は、学校で英語を習ったときは、ほとんどが宣言的知識をもとに教えられてきた。
「今まではI play tennis. でOKだったけど、今後は、
主語が ”三人称で・単数で・現在形” のときは、
He plays tennis. みたいに、sをつけてもらいまーす。」
という説明は、完全に宣言的知識に基づいている。
ここで、生徒の子が
(X) They plays tennis.
と書いてきたら、これが間違っている理由をしっかりと指摘することができる。
「Theyっていうのは、単数じゃなくて、複数だよね。じゃあ、sは付けたらダメだね」という感じに。
それで、おもしろいのは、
最初は宣言的知識として頭に入れた知識が、
次第に、手続き的知識として定着していくことがあるという点だ。
たとえば、「彼は上手に歌う。」を即座に英語にしてみて。と高校生ぐらいの生徒の子に尋ねると、
たいてい、「He sings well.」とすぐに返ってくる。
で、「なぜsが付くの?」と尋ねると、「えーっと・・・だってheが主語だから・・・」と、頭で考えて説明してくれる。
つまり、「Heが主語のときはsが付く」ということが、言葉でいちいち考えるまでもなく当たり前のこととして定着しているということだ。
言い換えると、無意識にその操作が頭の中で行われていることになる。
これは、過去に何度も何度も同じような英語の文を作ってきたことの賜(たまもの)だ。
「He play」と書いてペケされたり、「He speaks English.」というお手本を覚えたり、
そういう数えきれない試行錯誤を繰り返した末に、
知らないうちに(!)、無意識にその操作ができるようになっていることになる。
考えてみたら、すごく不思議なことではないだろうか。
今、「使える英語」とか「英語を話せる・書けるように」ということが頻繁に言われるが、
その中の1つのポイントは、宣言的知識に偏っている英語を、
もっと手続き的知識へと移行していくことにあるのではないかと思っている。
端的に言えば、「頭でっかちの英語」を、もっと「無意識に使いこなせる英語」へと変換していくことが大切なのではないかと思う。
そういう意味を込めて、自分は、英語に関して話すときは「スキル」という言葉を使うようにしている。
もう少し正確に言うと、なぜか、決まって「スキル」という言い方をしてきたことに最近気づいた。
「スキル」は、ただ本を読んで知るだけでは身につかない。
自転車の例に戻ると、ただ自転車の乗り方を本で読んだだけで、
そのまますぐ明日、自転車をこいで登校できるようになるかといえば、違う。
その知識を「無意識に使いこなせるところにまでもっていく」ための練習を通して、
初めて、「あ、乗れる!」という、超絶に嬉しい「スキル獲得」の瞬間がやってくる。
英語も同じで、それこそいちいち「三単現が・・・」とか「sheとseeの発音の違いは・・・」とか意識的に考えていたら、スピーキングなんかやってられない。
「45秒しゃべり続ける」というテストなら、もう腹を決めて45秒話し続けるしかないわけで、
そのときに、英作文のテストなら「She likes playing tennis.」を正確に書ける子も、
いざ「ずっと英語で話し続ける」となれば、下のように、最初は間違いまくるだろう(下線部は文法的にミスっている箇所)。
Let me talk about my best friend, Keiko. She like to playing tennis very much. We sometimes playing it together, and it's really fun. When I want to talk about my private things, I always talked with her because I can fully trusts her. ...
この子は、「She likes to play tennis.」という文だけを作るというタスクなら、無意識に(ほぼ手続き的知識として)英語を組み立てることができるが、
「複数の文をいくつも作って話し続ける」という状況に対してはまだ慣れていないので、そうなると余裕がなくなりミスしまくっている(無意識に使いこなせるレベルまで達していない)
ということができる。
それは当たり前のことで、要は、そうやってミスりながら(自転車で言えば、何度もこけながら)、
そういう箇所は指導してもらいつつ、少しずつ直していけばいい(=少しずつ手続き的知識へと変換していけばいい)んだと思う。
すると、だんだん、「意識しなくても言える」表現が増えてくる。
最初に間違うのは全然OKだ。その間違いを直していくうちに、どうせ正しく、自然に「使える」ようになっていく(手続き的知識へと移行していく)。
これって、自転車と完全に一緒で、もはや「勉強」というより「スキル習得」に近いんじゃないだろうか。
一方、文法の4択問題なんかは、これは完全に「しっかり考えて、最適な答えを選ぶ」という宣言的知識が試される分野なので、間違い=悪 であって、「ちゃんと覚えよう」という話になってくる。
この2つの知識の違いがあるので、塾で教えるときも、こういうことを考えて教えないといけない:
・「宣言的知識」としてどこまで教えるのか?
・どの「宣言的知識」を「手続き的知識」に変換すべきか?
(たとえば、ほとんど実際の英語で登場しないような文法項目を、いちいち手続き的知識に移行させる必要はない。文法の4択問題でしか出てこないような知識は、むしろ宣言的知識のままで十分だ。)
・「宣言的知識」の段階すらすっ飛ばして、さっさと「手続き的知識」として身につけてもらうべき分野はどこか?
この「宣言的知識」から「手続き的知識」への移行を経て、英語をできるようになってきたっていうのが、
ネイティブの先生とか帰国子女の人たちと比べたときの、
自分のような「日本国内で英語を学んで育ってきた」英語の先生の強みなんじゃないかなと思っている。
同じプロセスを使って、生徒の子たちの英語力アップを手伝ってあげられるからだ。
だからこそ、自分自身でも、英語のテストにチャレンジし続けている。
この前、TOEIC SWという試験を初受験して満点だったと書いたけど、
たとえば、その中の200点満点のスピーキング問題で、
「190~200点」を獲得したのは、その回では全体の2.2パーセントの人たちだったと発表されている。
「留学していなくても、そして多少のミスをスピーキング中にしてしまったとしても、
それでもスピーキングの問題で満点をとれる。約2%の中に入れる」ということを、身近な自分の存在から、生徒の子たちには、リアルに実感してほしい。
「俺もできるかも」とか、「私でも先生に追いつけるかも」って思ってほしい(もちろん、こっちだって追い抜かれないように進化するしかない)。
・・・とか考えながら教えています。
たまには真面目に書いてみたけど、ちょっとたくさん書きすぎたかな・・・。
P.S.
今日も、保護者の方々からお菓子をいただきました。
いつも本当に、ありがたいばかりです。生徒のみんなで美味しくいただきました。
ありがとうございます!